日本テレビゲーム史 1 〜ファミコン誕生〜

ファミコン

 かつては不況知らずといわれたゲーム業界も、最近はすっかり元気がなくなり、作っても売れない、という深刻な局面を迎えている企業が多いといわれます。
  
 このあたりの事情については、『ゲーム批評』の最新号でも特集していますが、今日はそういう深刻な問題はさておいて、今日に至るまで日本のゲーム(しかも、家庭用ゲーム機を中心としたもの)についての歴史を辿ってみたいと思います。
  
 まず、日本のテレビゲーム史において燦然と輝く存在が任天堂
今や SCEISony Computer Entertainment Inc.)に押されてナンバー1の地位は明け渡したものの ファミコンが日本のゲーム市場を牽引してきたのは事実です。
   
 さて、その任天堂ですが、会社としての歴史は古く、花札製造会社として京都に創業されたのはなんと1889年。社名は「任天堂骨牌」でした。
1889年といえば、大日本帝国憲法が発布され、東海道本線、東京〜神戸間が開通した年です。伊藤博文黒田清隆山県有朋といった明治政府の中心人物たちが現役バリバリで活躍していた頃です。
そんな時代に誕生した任天堂。ただ運を天に任せてスタートした会社が、大ブレイクのきっかけをつくったのはそれから約90年後の1980年のことでした。
  
 1980年、任天堂は、携帯ゲーム機「ゲーム&ウォッチ」を発売しました。
この頃、すでにコンピュータ・ゲームはアーケード版という ゲームコーナーに置かれる専用機の形で日本に入ってきていました。
ブロック崩し」「スペースインベーダー」「ギャラクシアン」「パックマン」など、今でも時々耳にする有名なアーケードゲームは1975〜80年にかけて喫茶店やゲームコーナーを賑わせました。
1ゲーム100円、というけっこう高い遊びであるにもかかわらず、何万円もつぎこんで遊んでしまう若者がいたりして、社会問題になったりもしました。
   
 誰もが思ったはずです。
「家でお金をかけずにとことんスペースインベーダーができたら…。」
パックマンをきわめてみたいけど、お金がないからなぁ…」
しかし、それらのゲームの基盤を入手したり、筐体ごと購入してしまえるような財力は庶民にはありません。
  
 当時、エポック社などが家庭用のゲーム機(テレビにつないでプレイできるゲーム機)を発売し、何種類かのゲームが内蔵されていて話題になっていましたが、任天堂はゲームをもっと身近なものにしてもらおうと思ったのか、それとも「おもちゃ」として手頃と考えたのか、「ゲーム&ウォッチ」を発売したのでした。
もちろん、何種類ものゲームがプレイできるわけではなく、単純なゲームがプレイできるだけのものでしたが、子供のポケットに入るぐらいの大きさで、どこででも遊べるゲーム&ウォッチは、けっこうヒットしました。
   
 考えてみれば、ゲームボーイの原型はすでに1980年にあったといってもいいでしょう。任天堂は、おもちゃ会社なので、コンピュータがどうこういう以前に、おもちゃとして楽しいかどうか、という価値基準を持っている会社だと思われます。
   
 1980年の暮れ、NOA(アメリ任天堂)が設立され、翌年、アメリカではアーケードゲームの「ドンキー・コング」が発表され、大ブームとなりました。
テレビゲームの本場で大成功を修めたことは、任天堂に自信を与え、コンピュータ・ゲームの分野に本格的に進出するようになっていったのでした。
   
 1980年代に突入する3年前の1977年、アメリカでは、アタリという会社が、家庭用ゲーム機「ATARI 2600」を発売し、大ヒットしました。
何しろ、全米の3割以上の家庭がこのゲーム機を購入した、というほど普及したのです。
 ところが、1982年になって、駄作ソフトの横行と供給過剰でアタリのゲームはほとんど売れなくなり、アメリカでのゲーム市場は壊滅状態となりました。
この出来事を「アタリ・ショック」といい、日本のメーカーも警戒心を強くし、この先、ゲームは売れるのだろうか? という疑問符を投げかけたのでした。
   
 この時期、日本ですでに発売されていた家庭用ゲーム機としては、エポック社の「テレベーダー」、「カセットビジョン」、バンダイの「インテレビジョン」、「アルカディア」、トミー工業の「ぴゅう太」、ヤマギワ電気の「ダイナビジョン」などがありました。しかし、群雄割拠の時代で、ひとつのゲーム機が圧倒的な強さを持つには至らなかったのです。それだけ、魅力的なソフトがなかったということかもしれません。
   
 1983年7月15日。
 この日、奇しくも2つの会社からテレビゲーム機が発売されました。
セガ・エンタープライゼズの「SG1000」というゲーム機と任天堂の「ファミリーコンピュータ」でした。
   
 この頃、ゲーム会社はソフトを自社だけで開発して作っていました。しかし、一社だけでは限界があります。そこで、ゲームソフト不足の解消と他のゲーム機との差別化をめざして任天堂は「サードパーティ」とよばれるソフト開発会社の参入を認め、そのかわり、ファミコンソフトを製作するには任天堂とライセンス契約を結び、お金を払い、3つの条件を守ることを約束させたのでした。
 その約束とは…
   
(1)ゲーム内容について任天堂の審査を受けること。
(2)ソフト製作本数を(協議の上)年間1〜5本以下とすること。
(3)ソフト生産は任天堂に委託し、その際、前金で製造費を支払うこと。
   
この3つでした。だから、ファミコンソフトのパッケージには 『ファミリーコンピュータファミコン任天堂の商標です』、という文字が印刷され、任天堂の許可なしにソフト開発はできない、というしばりをつけるとともに、おもしろいゲームを誕生させるための開発環境を整え、販売ルートの確保(任天堂はもともと問屋と良好な関係を持っていた)を約束したのでした。
   
 任天堂は、自社でソフトを開発するよりは、ゲームを持ち込んでもらい、それを製造して販売することにアイデンティティを見出したのでした。
その後、初期のサードパーティとして登場してくるのが「ハドソン」、「ナムコ」で、「ナッツ&ミルク」、「ロードランナー」、「ギャラクシャン」、「パックマン」、そして「ゼビウス」など、アーケードの名作が続々と登場することとなりました。
「ゲーセンでのゲームが家でできる…」という夢が現実のものになったのでした。
そして、ハドソン・ナムコに続き、タイトーコナミカプコンジャレコなどが参入し、任天堂はこの6社までを「初期ライセンス企業」として優遇しました。
   
 そして、ファミコンが爆発的に売れるのが1985年。
任天堂宮本茂氏が中心となって開発した「スーパーマリオブラザーズ」が日米で発売され、大ヒットを記録することとなったのでした。
   
 この大ヒットにより、「ファミコン本体が売り切れ!」「どこへ行っても買えない」という状況を生み出し、任天堂ファミコンの名は社会的に認知されることとなり、不動の地位を得たのでした。
   
 翌86年には、ファミコンに接続する「ディスクシステム」が発売され、そのためのソフトとして「ゼルダの伝説」という名作が登場しました。
また、ファミコン用ソフトの「ドラゴンクエスト」、「プロ野球ファミリースタジアム」なども相次いで発売され、任天堂は群雄割拠していたゲーム機会社の中で、天下統一に向けて一歩も二歩もリードする企業となったのでした。
   
 日本テレビゲーム史2は またいずれ改めて書いてみたいと思います。
(記事中に間違いや勘違いがあるかもしれません。その場合は、どうぞご指摘ください)