この習慣にストップはかかるのか?

うーん、難しいでしょうね。
今年の年賀はがきの発行枚数、いったいどれぐらいになったと思います?

調べてみたところ、追加分も含めて43億7884万枚にものぼるということです。
1枚50円で計算しても218942000000円にもなります。
これは「超ビッグビジネス」といってもいい額ですよね。
これだけのものをやめさせるわけにはいかないでしょう。
きっとやめさせないようにあの手この手を考えているんだと思います。郵政関係は…。

民営化になるんだし、これを独占的にやっているのはちょっと問題ですよね。
クロネコとか佐川とかも 年賀配達に参入してはどうでしょう?
ただ、ハガキ一枚を届けるのはシステム上 労力がかかりすぎるから、何か方法を考える必要はあるだろうけどね。

何しろ年賀郵便がスタートして100年なんだから いくらなんでもそろそろ改革が必要だと思うんですけどね。
みなさんはどう思いますか?

年賀状はいつからはじまった?

そもそも年賀状はいつ頃から書かれはじめたのか?
これはカンタンに見当がつきます。
郵便制度がない時代には今のような年賀状は存在していなかったはずですから、郵便制度が導入されたあと、つまり明治以降にそのルーツを探ることができるはずです。

ちょっと調べてみたところ、郵便制度のスタートは1871年、明治4年であることがわかりました。
この制度の発足に尽力したのが前島密であることはよく知られていることですよね。
この年の3月1日に、東京・京都・大阪の三都市と東海道線の各駅で、郵便物の取扱、切手の発行が始まり、翌年にはほぼ全国的に実施されたとのことです。

では、問題の年賀状。これはいつ始まったのだろうか?

これは、ハガキの発売と密接な関係を持っています。
ハガキは1873年から発売され、全国均一料金制が実施されました。
これは当時の人たちにとっては大きな魅力だったことでしょう。
電話もメールも普及していない時代に、遠方の人に低価格で情報を伝達することができる。
これが新年のあいさつのきっかけとなっていったのでしょう。
ちなみに、「切手」「ハガキ」などの造語は全て前島密によるものだそうです。
密、すごいじゃないか!

そして、1899年に年賀郵便特別取扱が開始されます。
一部の郵便局で、年賀状を年内の一定期間に出せば、1月1日の消印で元旦以降に配達するというシステムをスタートさせたのがきっかけです。
この「一部の郵便局」が次第に拡大されて、現在のように全国的に展開されるようになっていったわけです。
そして、今からちょうど100年前の1905年には全国の郵便局で年賀郵便特別取扱が実施されるようになったといいます。

こうして、全国的に12月中に「旧年中はお世話になりました。今年もよろしく」とちょっと先取りしたメッセージを書くようになったんですね。

年賀状に歴史あり!

wildneko2005-01-01

あけましておめでとうございます。
新しい年を迎えました。みなさん、今年もどうぞよろしくお願いします。

さて、年も明けないうちから年賀状づくりに追われていた人も少なくないと思います。
「もううちでは来年から年賀状の風習はやめにしたい」
「いったい誰がこんなこと始めたんだ?」
年賀状を書きながら なんとなくこの風習に疑問を感じた人もいたことと思います。
僕も例にもれず 年賀状という習慣に疑問を感じつつ、毎年200枚ばかりの年賀状を出しています。

そして、1月1日・・・。朝早く届いた年賀状を家族の宛名別に整理していると、だいたい出していない人からたくさん届いていて、出している人からの方が少ない!
これもまた気が重くなります。

新たに届いた人たちに年賀状を書く。

年末から年始にかけて、この作業からなかなか開放されないのが例年のパターンです。
いくらメールが普及しても、年賀状はなかなかなくなりません。
もう21世紀だというのに。。。

そこで今日は、悪しき(?)風習である年賀状の歴史を紐解いてみたいと思います。

映画『CASSHERN』が訴えるもの 〜戦争の歴史を考える〜

『CASSHERN』

 GW最初の日に映画『CASSHERN』を観ました。
毎月1日は映画が1000円で観られる日なんですよね。
で、『CHASSHERN』はちょっと気になっていた映画だったので、このチャンスを逃しちゃいけない! と、ばかりに朝から映画館に向かいました。
(でも、途中大渋滞にはまってしまってわずか10km先の映画館まで2時間もかかってしまい、結局3時からの上映分を観ました。丸一日かかったことになります…)
   
 単純なヒーロー物を想像していたのですが、全然違いました。
昔、タツノコプロのアニメとして製作されていた「キャシャーンがやらなきゃ誰がやる…」の決めゼリフで有名な作品を僕は見たことはあるのですが、記憶には全くなくて、その世界観とかストーリーとかは白紙同然でした。
それがよかったのかもしれません。
CASSHERN』のHPのBBSなんかをのぞくと、アニメ版との違いについて批判的に書いている声がけっこうあったからです。
でもまぁ、そういうことを言い出せば、「ビートたけしの『座頭市』は昔のと違うからダメだ!』とヒステリックに叫ぶようなもので、リメイクには解釈というものがつきものだし、その設定をちょっと借りただけで、別の何かを表現したい、ということだってあるはずです。
だから、僕は、この『CASSHERN』という映画を非常に肯定的に受け止めています。
   
 2時間20分という長い作品ですが、途中でダレを感じさせない展開になっていて、こういう映画にありがちなつじつまが合わない「矛盾」とかわけのわからない「ナゾ」の放置とかが少なかったように思います。
ストーリーについては、これから観る人もいるだろうからあまりふれないでおきますが、はっきり思ったのは「この映画は、反戦映画である」ということ。
まぁ、そんなことは、観れば誰でも感じることで、「反戦」以外の何ものでもないでしょう。
   
CASSHERN』のHPにあった映画紹介を少し引用します。
   
「人は自我と欲望を持って生きている。
その結果、周囲と摩擦が起き、争いになることも多い。
親子、兄弟、友人、恋人、国家と、対立はあまたに存在する。
規模の大小はあっても争いは絶えたことがない。
それゆえ、人間の歴史は戦いの歴史でもあるのだ。
『人間はなぜ争うのか?』
この重く普遍的なテーマを、エンターティメント性豊かに描き、誰も見たことのない、
それでいて、懐かしい既視感(デジャビュ)を感じさせる映像世界が誕生した。
ここには未体験の世界とドラマがある。」
   
 「人間の歴史は戦いの歴史でもある」「人間はなぜ争うのか」
実に哲学的なテーマです。しかも、哲学的などと悠長なことを言っている場合ではなく、現実問題として、毎日のようにテロや襲撃、爆撃のニュースが伝えられています。
   
 争いは、相手の主張や立場を認められないところからいつも始まります。
戦争というほどの争いでなくても、自分と周囲で最近あった「争い事」を思い出してみてください。
その原因のほとんどは、「自分はこう思うのに、相手はそう思ってくれない」という小さなひずみにあるのではないでしょうか?
そのひずみを是正するために、言葉を尽くして説明しようとします。
でも、それが伝わらないとなると、何が何でも相手に自分の主張をわからせようとエスカレートしていきます。
それがテロであり、やがては戦争へと続いていくことになるのです。
   
 人間の歴史は戦いの歴史、と、断言していいのかどうかは検証を要しますが、世界的に見れば、支配をめぐる戦い、宗教をめぐる戦い、正義を主張する戦い… いろんな大義名分のもとに戦いがくりひろげられてきたことは明白です。
   
 日本の歴史上の争いを見てみると、少なくとも縄文時代には大規模な争いはなかったと考えられています。
これは、出土する遺物に人間を殺傷するために作られた「武器」がないことや、殺されたと思われる人骨が見つかっていないからです。
   
 ところが、紀元前3〜4世紀頃(あるいはもう少し前)になると、中国大陸では戦国時代、そして、秦による国土統一などが行われ、多くの人々が戦乱を逃れようと海を渡って日本列島に上陸したと考えられています。
   
 このことは、縄文人骨と弥生人骨を比較すると、同一の民族ではないということからもはっきりしています。
   
 戦争を経験してきた人々は、戦争を知らない縄文人の集落を襲い、殺したり奴隷にしたりして占領し、各地に「小国」を形成していったのでしょう。
そして、小国同士の対立や抗争がおこり、弥生時代は日本最初の「戦国時代」といってもいいような状況となったわけです。
   
 ムラの周囲に幅6mもある溝を掘った環濠集落や、山の上に集落を作って攻められないようにしている高地性集落の存在が、おだやかではなかった時代を象徴しています。平和な世の中ならそんな防御施設は必要ないはずですから。
   
 中国の史書後漢書東夷伝には、2世紀後半に「倭国大乱」が起こっていたことが記されています。
山口県の土井ケ浜遺跡から210余りの弥生人の人骨が発掘されていますが、その中には矢を受けて死んだと思われる人骨や頭蓋骨に石鏃(石でできた矢の先)がそのまま残ったものもあります。
   
 縄文時代に、イノシシやうさぎをつかまえるために作られた弓矢が、弥生時代になると、先につける鏃が大きくなり、明らかに「人を殺すための武器」と変化していることがわかります。
   
 こうして、今から2000年近く昔の時代に海の向こうから戦いがやってきて、日本に住んでいた原住民を従わせ、やがて邪馬台国大和国家といった大きな「クニ」が誕生していったのでした。
   
 クニができると、周辺への攻撃が始まります。
 最初は工具や農具・実用具として使用されていた鉄を人を殺すための武器として利用するようになり、鉄剣や鉄刀が生まれます。
武器の材料として必要な鉄を得るために朝鮮半島に軍勢を送ります。(高句麗好太王碑文より)
   
 日本独自の歴史書が記されるようになり、戦いの記録が文字として残されるようになっていきました。
   
 6世紀には蘇我氏物部氏の仏教崇拝をめぐる争いが起こり、最後には武力で決着をつけます。蘇我氏が勝って仏教が国をあげて信仰されるようになりますが、仏の教えとは本来そういうものだったのでしょうか?
   
 7世紀になって聖徳太子が登場しますが、その子の山背大兄王蘇我氏に滅ぼされます。
その蘇我氏中大兄皇子中臣鎌足らは大化の改新で滅ぼします。
百済を滅ぼした新羅と唐と戦うために663年、海を渡った倭国軍は大敗します。
おびえるように中大兄皇子は都を琵琶湖のほとりの大津宮に遷し、天智天皇となります。
しかし、その死後、息子の大友皇子大海人皇子皇位継承をめぐって、古代最大の戦いといわれる「壬申の乱」をひきおこします。
大海人皇子が勝って天武天皇になりますが、多くの血が流されました。
   
 8世紀、都が奈良に遷され「平城京」が栄えても、その背後で 陰謀や争いは絶えず、長屋王の変藤原広嗣の乱橘奈良麻呂の乱恵美押勝の乱
そして、「蝦夷」(エミシ)とよばれた東北地方の民衆を服属させ奴隷のようにこき使います。そのため蝦夷との戦いが8世紀後半から9世紀にかけて行われるのです。
征夷大将軍 という武人の大将の称号が誕生するのもこの時代ですが、蝦夷はそこに住んでいるだけで襲われ、移住させられ、奴隷のように働かされたわけです。彼らに何の罪があったでしょう?
それでも、正義は大和朝廷にあり、服属を拒めば征伐されたわけです。
強い立場の者は正義であり、抵抗する者は悪という構図で戦いはくり返されました。
仙台あたりでは、今でも、蝦夷の長であった阿弖流為アテルイ)を讃える歌が伝えられているといいます。
   
 10世紀になると武装した豪族が地方に現れます。
平将門藤原純友といった暴れん坊が中央政府に反旗を翻しますが、武力に対してはより強い武力が立ちはだかり、これを鎮圧しました。
   
 11世紀後半から12世紀にかけて地方で武士が台頭し、中央でもその力を利用しようとする貴族が出てきて、政治の争いに武士の力が利用されるようになっていきます。
しかし、やがて武士をコントロールできなくなって、平清盛による平氏政権やそれを倒した源頼朝鎌倉幕府など、武士によって支配される国家へと変わっていきました。
   
 以来、明治維新まで「武士」が政権を握っていた時代が続きました。
明治になって、役人による政府が実現しますが、これも元々は下級武士がつくった政府ですから武士的な気風は残っていたといえるでしょう。
   
 そして、明治国家の元で成長していく陸軍と海軍は、国力を高揚させ、やがては他国との戦いを通して、自分たちが最強であると過信しはじめるようになります。
もっとも、中には冷静に分析していた軍人もいたでしょうが、軍部の勢いや流れを止めるほどの統率力を持つ者はいなくなり、ブレーキの効かない列車に乗り込んだかのように国を挙げて戦争の時代へと突入していきました。
   
 世界的にも多くの国が争いにまきこまれるという「世界大戦」という動きとなり、結局は、勝った国が負けた国を従わせるという構図が一般化していきます。
   
 日本も太平洋戦争に敗れ、東京裁判で多くの軍人や政治家、兵士が裁かれました。
戦争に勝った国が負けた国を裁くという行為自体、正義といえるのかどうかという疑問を感じた有識者もいましたが、そういう意見は少数意見とされました。
   
 日本もドイツもイタリアも戦争に敗れ、世界の悪は滅んだはずだったのに、それから5年後には朝鮮半島で戦争が起こり、さらに15年後にはベトナム戦争が起こっています。
   
 ひとつの争いが終わるまでに、数え切れないほどの兵士や民間人が命を失い、建物も財産も焼き払われてしまうのに、また、どこかで新しい争いが起こります。
   
 1991年に始まった湾岸戦争
 戦火は収まってもフセイン政権は継続されました。イラク核兵器など、大量破壊兵器を所持していると疑いをかけられ、アメリカが中心となって攻撃し、フセイン政権は倒れました。
それでも 戦いは終わりません。
   
 「自爆テロ」という言葉が日常的に聞かれる時代です。
これはどう考えても平和な時代ではありませんよね。
こうして2000年近くの歴史をたどってみると、たしかに 人間の歴史は戦いの歴史 というのは空言ではなく真実だといえるでしょう。
   
   
 『CASSHERN』で2時間20分かけて訴えたかったことは、他者を認めることなくして平和はありえない、ということでした。
争いの行き着く果ては滅亡しかないでしょう。
今の世界が滅亡に結びつかないとはいえないでしょう。
今日よりも明日、もっとおそろしいことが起こるかもしれない…
そういう危機感を抱いたまま生活しているのが「現代」という時代ではないでしょうか?
   
 映画が終わってスクリーンが真っ暗になり、キャストやスタッフのロールが流れるところで宇多田ヒカルによる主題歌「誰かの願いが叶うころ」が流れました。
  
  小さなことで大事なものを失った
  冷たい指輪が私に光ってみせた
  「今さえあればいい」と言ったけど そうじゃなかった
  あなたへ続くドアが音も無く消えた
  
 そう、きっかけはいつだって 小さなこと。
でも、小さな誤解やいさかいが後戻りできなくなって大きな争いへと発展し、なにもかもなくしてしまうほどの大事に発展してしまうのです。
   
  あなたの幸せ願うほど わがままが増えてくよ
  あなたは私を引き止めない いつだってそう
  誰かの願いが叶うころ あの子が泣いてるよ
  みんなの願いは同時には叶わない
  
 この曲を最初に聴いた時、何がいいたいのかよくわかりませんでした。
でも、この映画のために書いたというだけあって、映画の最後に流れるとその表現力は倍増しました。
全然違う感動がそこにありました。
   
  
  みんなの願いは同時には叶わない
   
  
 だから戦いはくり返され、自分の願いを叶えるために他者を傷つけてしまうというわけです。
  
 すごく長い文章になってしまいましたが、映画『CASSHERN』を観て、そして、宇多田ヒカルの歌を聴いて、戦争の歴史について考えずにはいられませんでした。
  
 戦争をやめようとしない指導者たちは、戦争の先にどんな未来を見ているのでしょう?
そして、我々にできることは???

布団の歴史

ふかふかのお布団

 あなたはベッドで寝ていますか? それとも、布団を敷いて寝ていますか?
いずれにしても、寝具なしでは一日の疲れもとれませんよね。
   
 最近、布団にも入らず、床に横たわって寝ていることが多くなっています。気がつけば朝(それもかなり早朝)・・・なんてことがけっこうあって、健康にも悪そうです。何よりも疲れがとれないような気がするんですね。何しろ「床」(とこ、ではなくて、ゆか)ですから…。
寒い時は布団なしでは寝られないのですが、暖かくなってくるとついついルーズになってしまうんでしょうね〜。
同じような思いをしている人はいませんか???
   
 そこで今日は「寝具の歴史」についてまとめてみます。
   
 そもそも、布団なんてものが登場するのはずっとあとになってからで、原始時代はもちろん、奈良時代平安時代も布団では寝ていなかったようです。
部屋に畳を敷き詰めるという習慣もありませんでした。
貴族たちは、寝る時に畳を敷いて、その上に横になり、昼に着ていた衣類をかけて寝ていたようです。
昼に着ていた衣類をかけるわけですから、裸になって、上に着物をかける… そんな感じだったわけです。
  
うーん、床に伏せって寝ているより健康に悪そうだし、風邪をひきそうです…。まぁ、そういう生活に慣れていれば、どうってことないんでしょうが…
   
 また、庶民の場合は、畳なんて使えないから、床(平安時代ぐらいまでは、土)の上に横になって寝ていたんでしょう。
少なくとも、庶民は、弥生時代奈良時代ぐらいまでは、竪穴住居に住んでいて、土を丸く掘って、そこに入って丸くなって寝ていたと考えられています。その際に、やっぱり着ていたものを上にかけて寝るわけで、ほとんどキャンプ状態ですね。雨の日や冬はかなり大変だったでしょう。
   
 「衣類をかけて寝る」というのにこだわっているのは、「一遍上人絵伝」などの絵画史料にそう描いてあるからであって、証拠は残っていません。
衣類以外では、藁を編んでつくった「むしろ」や「ござ」のようなものがあり、これらを上からかけるという発想は、きっとかなり昔からあったのではないかと推測できます。
   
 実際のところ、室町時代や戦国時代の頃には、庶民から戦国武将まで「寝むしろ」や「寝ござ」で寝ていたようです。この図は想像しやすいですよね。
   
 現在、我々が口にする「布団」のようなものが登場するのは16世紀半ば過ぎだと考えられています。
というのは、布団の中に入っている「綿」が貿易によって中国や朝鮮から輸入されるようになったからです。
  
 最初は、綿を着物の中に入れて、防寒用としたわけで、寝る時には、綿の入った厚めの着物を上からかけるようになったのでした。
   
 こういう厚手の着物を「夜着(よぎ)」といいました。
登場するのは安土桃山時代になってからです。
ノブナガさまやヒデヨシさんたちは、きっと夜着をかけて寝るようになったでしょう。何しろ権力者ですからね。
   
 でも、綿なんて、まだまだ高級品です。本格的に国産化されるのは江戸時代になってからですから、一般庶民には手の届くものではありませんでした。
   
 だから、一部の人たちをのぞいて17世紀になってもまだ、綿の入った布団で寝るような人たちはほとんどいなくて、相変わらず着ていたものを上からかけて寝るか、むしろやござにくるまって寝ていたわけです。
   
 ふとん屋の老舗としては京都西川が有名です。
 京都西川のホームページには店の歴史が記されていますが、創業はなんと1566年!
   
 織田信長足利義昭を擁立して上洛する1年前ではありませんか。
そこには「初代西川仁右衛門が19才で蚊帳・生活用品販売業を開業 」と書いてありました。
   
 しかし、布団を売ったとは書いてありません。
   
 京都西川の年表を見ていくと、「ふとん」の文字が登場するのははるかに下って「1887年 大阪支店、京店でふとんの販売を始める」というところまで行ってしまいます。
   
 京都西川といえば「布団屋」というイメージがありますが、蚊帳の販売が主であって、布団を売るようになってからは120年足らずであることが判明しました。
   
 1887年といえば、大日本帝国憲法発布を前に大同団結運動なんてのをやっていた頃です。2年後には「任天堂」も登場してきちゃいます。東京から神戸まで汽車で行けちゃったりもします。
   
 でもでも、江戸時代の時代劇とかでは、布団で寝ていたりしてますよね。これはどうなんだろう…。
    
 いろいろ調べてみたら江戸時代に「ふとん」は登場していました!
でも、掛け布団はなくて、布団といえば「敷きふとん」の事を意味していたようです。
掛けふとんにあたる物はこの時代でもやっぱり夜着が主流で、関西地方では、四角い掛け具である衾(ふすま)というものを使うことが多かったといいます。
四角い掛け具の衾がやがて掛け布団へと発展していったのでしょう。
   
 ちなみに、江戸時代に売られるようになった敷き布団ですが、記録によると、3枚で100両!
時代によって貨幣価値は変わりますが、1両はだいたい12万円ぐらいです。
ということは、布団3枚で1200万円。1枚なら400万円ぐらいだったということになりますよね。
こんな高価な布団だったので、庶民はもちろん使えません。花魁(遊女)たちがお金持ちからプレゼントされたりしていました。
また、花魁はランクによって敷き布団の枚数が違っていたという記録も残っています。3枚敷いていたり、5枚敷いていたり…… ほとんど「笑点」みたいなノリですよね。(笑)
とにかく、そういう記録から江戸時代の布団事情が垣間見えるわけです。
   
 結局、庶民が布団を手にするのは、明治になって 綿花が外国から輸入され、機械化された紡績工業が各地に出来、価格が引き下げられてからということになります。
   
 ふかふかの布団で眠りに落ちる… こんな暮らしを経験するようになってまだ100年もたっていないということです。
   
 ふと気がついたら床で寝ていた… なんていっても、別に長い歴史から見れば、「そんなの普通じゃん」ってことになるわけですよね。ちょっと安心しました(笑)
   
 ちなみに、ベッドの歴史ですが、弥生時代の遺跡をみると、部屋の周りにベットがあった形跡があります。これは、弥生人が大陸や朝鮮半島から渡ってきた人たちであったことのなごりでしょう。
   
 しかし、その後、日本の歴史からベッドは消え、明治時代になって欧米の文化とともにベッドが伝えられ、ホテルや上流階級の人々から始まり、大正時代になって国産ベッドの会社がようやく設立されます。
   
 一口に「快適な眠り」といっても、現在のようなスタイルに至るまでにはものすごく長い年月が必要だったわけですね。
布団の歴史を調べてみて、気持ちの良い布団に包まれて眠ることができる現代に生まれて良かったと改めて実感しました。
   
床で寝るなんてもったいないことしないで、ちゃんと布団に包まれて寝るようにしよ〜っと!

日本テレビゲーム史 1 〜ファミコン誕生〜

ファミコン

 かつては不況知らずといわれたゲーム業界も、最近はすっかり元気がなくなり、作っても売れない、という深刻な局面を迎えている企業が多いといわれます。
  
 このあたりの事情については、『ゲーム批評』の最新号でも特集していますが、今日はそういう深刻な問題はさておいて、今日に至るまで日本のゲーム(しかも、家庭用ゲーム機を中心としたもの)についての歴史を辿ってみたいと思います。
  
 まず、日本のテレビゲーム史において燦然と輝く存在が任天堂
今や SCEISony Computer Entertainment Inc.)に押されてナンバー1の地位は明け渡したものの ファミコンが日本のゲーム市場を牽引してきたのは事実です。
   
 さて、その任天堂ですが、会社としての歴史は古く、花札製造会社として京都に創業されたのはなんと1889年。社名は「任天堂骨牌」でした。
1889年といえば、大日本帝国憲法が発布され、東海道本線、東京〜神戸間が開通した年です。伊藤博文黒田清隆山県有朋といった明治政府の中心人物たちが現役バリバリで活躍していた頃です。
そんな時代に誕生した任天堂。ただ運を天に任せてスタートした会社が、大ブレイクのきっかけをつくったのはそれから約90年後の1980年のことでした。
  
 1980年、任天堂は、携帯ゲーム機「ゲーム&ウォッチ」を発売しました。
この頃、すでにコンピュータ・ゲームはアーケード版という ゲームコーナーに置かれる専用機の形で日本に入ってきていました。
ブロック崩し」「スペースインベーダー」「ギャラクシアン」「パックマン」など、今でも時々耳にする有名なアーケードゲームは1975〜80年にかけて喫茶店やゲームコーナーを賑わせました。
1ゲーム100円、というけっこう高い遊びであるにもかかわらず、何万円もつぎこんで遊んでしまう若者がいたりして、社会問題になったりもしました。
   
 誰もが思ったはずです。
「家でお金をかけずにとことんスペースインベーダーができたら…。」
パックマンをきわめてみたいけど、お金がないからなぁ…」
しかし、それらのゲームの基盤を入手したり、筐体ごと購入してしまえるような財力は庶民にはありません。
  
 当時、エポック社などが家庭用のゲーム機(テレビにつないでプレイできるゲーム機)を発売し、何種類かのゲームが内蔵されていて話題になっていましたが、任天堂はゲームをもっと身近なものにしてもらおうと思ったのか、それとも「おもちゃ」として手頃と考えたのか、「ゲーム&ウォッチ」を発売したのでした。
もちろん、何種類ものゲームがプレイできるわけではなく、単純なゲームがプレイできるだけのものでしたが、子供のポケットに入るぐらいの大きさで、どこででも遊べるゲーム&ウォッチは、けっこうヒットしました。
   
 考えてみれば、ゲームボーイの原型はすでに1980年にあったといってもいいでしょう。任天堂は、おもちゃ会社なので、コンピュータがどうこういう以前に、おもちゃとして楽しいかどうか、という価値基準を持っている会社だと思われます。
   
 1980年の暮れ、NOA(アメリ任天堂)が設立され、翌年、アメリカではアーケードゲームの「ドンキー・コング」が発表され、大ブームとなりました。
テレビゲームの本場で大成功を修めたことは、任天堂に自信を与え、コンピュータ・ゲームの分野に本格的に進出するようになっていったのでした。
   
 1980年代に突入する3年前の1977年、アメリカでは、アタリという会社が、家庭用ゲーム機「ATARI 2600」を発売し、大ヒットしました。
何しろ、全米の3割以上の家庭がこのゲーム機を購入した、というほど普及したのです。
 ところが、1982年になって、駄作ソフトの横行と供給過剰でアタリのゲームはほとんど売れなくなり、アメリカでのゲーム市場は壊滅状態となりました。
この出来事を「アタリ・ショック」といい、日本のメーカーも警戒心を強くし、この先、ゲームは売れるのだろうか? という疑問符を投げかけたのでした。
   
 この時期、日本ですでに発売されていた家庭用ゲーム機としては、エポック社の「テレベーダー」、「カセットビジョン」、バンダイの「インテレビジョン」、「アルカディア」、トミー工業の「ぴゅう太」、ヤマギワ電気の「ダイナビジョン」などがありました。しかし、群雄割拠の時代で、ひとつのゲーム機が圧倒的な強さを持つには至らなかったのです。それだけ、魅力的なソフトがなかったということかもしれません。
   
 1983年7月15日。
 この日、奇しくも2つの会社からテレビゲーム機が発売されました。
セガ・エンタープライゼズの「SG1000」というゲーム機と任天堂の「ファミリーコンピュータ」でした。
   
 この頃、ゲーム会社はソフトを自社だけで開発して作っていました。しかし、一社だけでは限界があります。そこで、ゲームソフト不足の解消と他のゲーム機との差別化をめざして任天堂は「サードパーティ」とよばれるソフト開発会社の参入を認め、そのかわり、ファミコンソフトを製作するには任天堂とライセンス契約を結び、お金を払い、3つの条件を守ることを約束させたのでした。
 その約束とは…
   
(1)ゲーム内容について任天堂の審査を受けること。
(2)ソフト製作本数を(協議の上)年間1〜5本以下とすること。
(3)ソフト生産は任天堂に委託し、その際、前金で製造費を支払うこと。
   
この3つでした。だから、ファミコンソフトのパッケージには 『ファミリーコンピュータファミコン任天堂の商標です』、という文字が印刷され、任天堂の許可なしにソフト開発はできない、というしばりをつけるとともに、おもしろいゲームを誕生させるための開発環境を整え、販売ルートの確保(任天堂はもともと問屋と良好な関係を持っていた)を約束したのでした。
   
 任天堂は、自社でソフトを開発するよりは、ゲームを持ち込んでもらい、それを製造して販売することにアイデンティティを見出したのでした。
その後、初期のサードパーティとして登場してくるのが「ハドソン」、「ナムコ」で、「ナッツ&ミルク」、「ロードランナー」、「ギャラクシャン」、「パックマン」、そして「ゼビウス」など、アーケードの名作が続々と登場することとなりました。
「ゲーセンでのゲームが家でできる…」という夢が現実のものになったのでした。
そして、ハドソン・ナムコに続き、タイトーコナミカプコンジャレコなどが参入し、任天堂はこの6社までを「初期ライセンス企業」として優遇しました。
   
 そして、ファミコンが爆発的に売れるのが1985年。
任天堂宮本茂氏が中心となって開発した「スーパーマリオブラザーズ」が日米で発売され、大ヒットを記録することとなったのでした。
   
 この大ヒットにより、「ファミコン本体が売り切れ!」「どこへ行っても買えない」という状況を生み出し、任天堂ファミコンの名は社会的に認知されることとなり、不動の地位を得たのでした。
   
 翌86年には、ファミコンに接続する「ディスクシステム」が発売され、そのためのソフトとして「ゼルダの伝説」という名作が登場しました。
また、ファミコン用ソフトの「ドラゴンクエスト」、「プロ野球ファミリースタジアム」なども相次いで発売され、任天堂は群雄割拠していたゲーム機会社の中で、天下統一に向けて一歩も二歩もリードする企業となったのでした。
   
 日本テレビゲーム史2は またいずれ改めて書いてみたいと思います。
(記事中に間違いや勘違いがあるかもしれません。その場合は、どうぞご指摘ください)

洗濯機の歴史

国産第一号洗濯機

 「熱闘★日本史」:http://aririn7.cool.ne.jp/掲示板に洗濯機の話題が出ていたので、今日は洗濯機のことについて書いてみます。
   
 いつごろから洗濯という作業をしていたのかはわかりませんが、おそらくかなり昔から人類は洗濯をすることを思いついたに違いないと思います。
だって、衣類が臭くなるのは時代を超えていやですからね。
   
 調べてみたら、紀元前1800年頃のエジプトの壁画に、石の上においた洗濯物を棒で叩いている姿が描かれていたそうで、エジプト文明の頃には、壁画になるような一般的な光景だったことがうかがわれます。
   
 日本では、洗濯用のたらいや洗濯板が平安時代には登場していたようで、手でごしごしと洗うだけでは飽きたらず、アイテムを利用して洗濯をするというやり方をあみだされてきたわけです。それが、今から1000年前。
   
 では、洗濯機はいつごろ登場するのかというと、1850年代には洗濯槽の中の棒を手で回すタイプの手動洗濯機がアメリカで登場しました。
たそうです。
   
 1861年にはエンジンを使って回転させる洗濯機が登場し、洗濯専門屋さんで盛んに使われたようです。
でも、エンジンですからね〜。自動車を動かすようなものです。かなり大がかりな洗濯機だったといえるでしょう。
   
 それが電動式のモーターに変わったのは1911年で、「電気洗濯機」が誕生しました。日本に輸入されたのは、大正11年(1922)だったそうです。
日本人の得意技のコピー(というか、国産品)が登場するのは、1939年(昭和14年)。
東芝の前身の芝浦製作所が開発し、「ソーラ:Solar(太陽)」の名で、370円で発売しました。当時、公務員の月給が50円の時代ですから、月給の約8倍弱。今なら、大学卒の初任給が約20万円だから単純に考えると約150万円ぐらいの高級電化製品だったわけです。
戦争真っ只中のこんな時代に洗濯機が発売されていたとはちょっと驚きですが、お金持ちはいつでも快適な生活を享受できるってことなんでしょうね。
   
 さて、一般家庭に電気洗濯機が本格的に普及するのは1952年(昭和27年)以降となります。
そして、1953年には、初の噴流式洗濯機が三洋電機から発売されました。この年は、「電化元年」とも呼ばれ、洗濯機と冷蔵庫と白黒テレビは「三種の神器」といわれ、流行語にもなりました。
この頃の洗濯機の広告には、「手洗いで毎日2時間かかっていた洗濯も、洗濯機を使用すれば30分で終わり。残りの1時間半を主婦の時間に有効」と宣伝しています。主婦か家事から解放されていくきっかけとなった電化製品でもあったわけです。
洗濯機はまたたくうちに一般家庭に普及して、1960年頃には、ほぼ全世帯の50%が持つようになりました。
   
 その後、脱水ができるようになり、乾燥機もセットで販売されるようになり、洗濯機は進化を続けます。
そして、21世紀になり「洗剤のいらない洗濯機」も登場しました。
また、洗濯から乾燥までひとつのドラムの中で完結させるタイプの洗濯機(よくコインランドリーにあるやつですね)も一般家庭に普及しはじめています。
昼はおつとめで干している時間がない、とか、花粉症で外に干せない、という人たちに人気があります。
   
 見た目の派手さばかりでなく、いかにキレイに洗えるか、いかに布地を傷めずに洗えるか、布の種類を機械が判別して最も適切な洗い方をさせられるか……… こういう工夫が絶え間なく続いているそうです。
   
 未来の洗濯機はどうなるのか?
 洗って乾かしてたたんでくれる洗濯機とか、服を着たまま体ごと洗ってくれる洗濯機。夢のようだけど、現実のものにしようという技術者がいる限り、いずれ実用化される日が訪れることでしょう。
テクノロジーの発展はものすごい勢いで進んでいますね〜
   
 洗濯機ひとつをとってみても奥が深いですね〜。